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藤田正樹ってどんな人

プロフィール

誕生日
1979年12月26日
血液型
A型
生まれ
東京都日野市
育 ち
大分県臼杵市・山口県下関市
出身校
臼杵市立臼杵小学校
臼杵市立東中学校(2年まで)
下関市立勝山中学校
山口県立豊浦高等学校
大分大学工学部
現住所
東京都昭島市
家 族
妻・息子(2013.6生まれ)・犬(トイプー)
前 職
株式会社日立システムズ

写真:藤田正樹写真:藤田正樹

資 格

  • ファイナンシャルプランナー(AFP)
  • トータルライフコンサルタント
  • 変額保険販売資格者
  • 相続診断士
  • 住宅ローンアドバイザー
  • 損害保険販売資格者(取扱保険会社:ソニー損保)
  • 銀行代理業取扱資格者(所属銀行:ソニー銀行)

※ソニー銀行を所属銀行とする銀行代理業者 ソニー生命保険株式会社
ソニー生命では、ソニー銀行の円普通預金口座、外貨預金、住宅ローン、外貨送金、Sony Bank WALLET、おまかせ入金サービスのお申し込みの媒介ができます。

※金銭等をお預かりすることはございません。

※その他の財産の交付をお受けすることはございません。

経 歴

幼稚園のときに、おじいちゃんが、発売されたばっかりのファミコンを買ってきてくれました。なんで買ってきてくれたのかは分かりませんが、それが楽しくて楽しくて、幼少期時代はかなりゲームにハマった記憶があります。そのことがきっかけで、システムやソフトといったものを作ってみたいという気持ちが芽生え、大学では工学部の情報系(パソコン系とでもいいましょうか)を専攻しました。

写真:幼稚園時代幼稚園時代

就職活動なんですが、当時工学部には学校推薦を使って受けれる企業が結構ありました。なので楽勝(学校推薦を使うとほぼ落ちることはない)だと思っていたのですが、成績が悪すぎて望む企業の推薦は取れなかったんです(学校推薦は成績の良い人から希望の企業を取っていく)。推薦は諦めて自力就活を考えていたところ、日頃から仲良くしていた就職担当のおばちゃんから電話がかかってきて、「藤田くんが行きたがっていた企業の推薦を取っていた人が大学院に進むことになったから空きがでたよ」と報告してくれたんです。このときほど「人脈とかご縁ってすごいなぁ。そういうので人生変わっちゃうんだなぁ」としみじみ感じたのを覚えています。

ご縁に感謝

そんなこんなで、2002年に日立情報システムズ(現日立システムズ)に就職しました。入社してから十数年のあいだ、システムエンジニアとして大手企業の基幹システムやホームページなどの開発に携わりました。もちろん就職時の体験も活かし、たくさんのご縁を育み、多くの人と出会い、知り合うことができました。それからふとしたご縁で声を掛けられ、「より多くの人と出会って、人生を楽しく豊かにしていきたい」と思い、現職に転職しました。

転職した理由はもう一つあります。実は、前職時に健康診断で縦隔腫瘍なるものが見つかったのです。肺の近くの縦隔という空間にできる腫瘍です。手術は、わき腹から穴をあけて行う比較的軽めの「腹腔鏡手術」として始まったのですが、それでは摘出できなかったので、結局途中から「胸骨正中切開」に移行し、合計9時間に及ぶ手術となりました。壮絶でした。全身麻酔が解けたときのなんとも言えない全身の鈍痛は今でも忘れられないです。摘出した腫瘍を病理検査に出したところ若干悪性でした。事前検査等でそのようなそぶりは全くなかったので少々驚きましたが、その対策(放射線治療)もすぐに施し、もう数年が経ちますが、今では何事もなかったかのようにピンピンしています。定期検査でも全く問題ありません。ただ、自分自身、保険には入れない体となってしまいました。

写真

この経験を踏まえ、「本当に人の死はいつおとずれるか分からない」「保険は加入の必要がないときに加入でき、必要なときに加入できないもの」ということを多くの人に伝えていけたらいいなと思っております。

どんな人?

【誕 生】

母の実家があった東京都日野市で生まれました。母曰わく、あまり泣かずよく笑う子だったようです。4歳のときに父の転勤で九州の大分県臼杵市に引っ越しました。

写真:常にニヤついていました常にニヤついていました

【小学校】

大分県臼杵市はかなりの田舎で、家の前に川と山があり、海も近くにあったので、自然の中で遊びまくりました。もちろんテレビゲームもしました。そんな中、母は特に教育熱心というタイプではないのですが、習い事をいくつかさせられていた記憶があります。水泳、書道、合気道、英語、バドミントンなどやっていました。どれも大して身に付いておりません(笑)あと、なわとびが得意でした。今でも後ろ二重飛びぐらいはできると思います。

写真:海水浴写真:海水浴海水浴

写真:釣り写真:釣り釣り

【中学校】

スラムダンクの影響もあり、友人に誘われるがまま、バスケ部へ入部しました。背が低かった(今でも166ですが…)ので、ポジションはガードでした。2年のときからバリバリの熱血先生が顧問となり、休憩時の水が甘く感じられるほど毎日苦しい練習をこなしました。その甲斐あってか最後の試合では県で2位ぐらいまでいったと思います。スポーツと遊びと勉強と充実していたのですが、3年生になるタイミングでまた父の転勤で今度は山口県下関市に引っ越しました。友達の輪が形成されていた環境を離れるのはとても悲しかったです。また、友達の輪が形成されているところに新たに入るのもなかなかパワーを要することでした。転校先は、新幹線が停車する新下関駅という駅からほど近い、下関市立勝山中学校という学校でした。残り数ヶ月だったので、さすがに部活はやりませんでした。友達ができるかが一番不安でしたが、たまたま家が近所の人がクラス内に結構いたので、一緒に帰ったりするうちに仲良くなることができました。

写真:バスケ部時代バスケ部時代

【高 校】

山口県立豊浦高等学校という高校に入学しました。公立の普通科では珍しい男子校だったのですが、現在は共学になっているようです。当時は男だらけの相当むさ苦しい環境で、先生も厳しかったです。特に体育教官が厳しく、普通に竹刀を持って校内をウロウロしていました。体育館内にある体育教官室はボスゴリラの巣かと思っていました。部活は、小さい頃からバク転に憧れていたため、体操部に入部しました。体育教官の一人である日体大出身の三浦先生という熱血先生のスパルタ的指導と、山口県が器械体操のある高校が少ないということもあり、インターハイと国体に出させていただきました。練習が辛くて一度辞めると先生に言ったとき、強力なビンタをされ鼻血が吹き出たのが忘れられないです。今ではいい思い出ですね。辞めずに最後までやり遂げて良かったと三浦先生には本当に感謝しています。部活を引退してからは大学受験のための勉強に取り掛かりました。高校に入ってから3年生の秋まで体操に励んでいたため(←言い訳)成績が底辺まで落ち込んでいました。下から数えた方が早かったです。なのでその時は行ける大学がほぼありませんでした。これはマズイ!と奮い立ち、勉強ができる友達を巻き込んで、授業が終わったあと夜まで残ったり、授業がない日や休日はみんなで朝から学校に行ったりしていました。それを続けたことで成績は徐々に上がってきました。親から私立大学は許されていなかったので国公立に絞って受験しました。前期日程試で受けた第一志望の大学は落ちてしまいましたが、後期日程でなんとか合格することができました。しかも補欠合格とかだったと思います。

写真:ひろしま国体ひろしま国体

【大 学】

大分大学(工学部・知能情報システム工学科)に入学しました。なんか長ったらしい学科名ですが要するにパソコン系の学科です。高校が男子校でしたし、男子はもうお腹一杯だったのですが、またほとんどが男子の環境に来てしまい、工学部を選んだことを若干後悔しました。工学部の他は、経済学部と教育学部しかない大学だったので、学校的には女子が多い大学だったと思います。大学といったらサークルですね。高校を卒業するときはもう体操はやりたくないと思っていたのですが、時間が経つととやりたくなるものですね。体育会(学校公認の運動部)の中に体操競技部があったので入部してしまいました。マイナーな競技のためか、同期は男3人でした…。部活は通常3年生の夏ぐらいで引退し2年生が幹部(主将、副将、主務、会計などの部を運営する役)となるのですが、2年生が一人もいなかったため、1年の夏ぐらいから主将となってしまいました。主将になっていろいろ大変でしたが、何が一番大変だったかというと飲み会が大変でした。部の飲み会には恒例行事である「自己紹介」なるものがあります。自己紹介は、学年の下の方から順番に前に出て「山口県立豊浦高等学校出身。大分大学工学部知能情報システム工学科3年、藤田正樹、只今主将を務めております。よろしくお願いします!」という感じで大きな声で叫んだあと、コップ並々に注がれた伝統の大分麦焼酎二階堂を一気します(今のご時世では問題になりそうですが…)。主将はこの自己紹介が一番最後に回ってきますし、焼酎を注ぐのは主将の役目なので途中で潰れることができないのです。後輩の前では威厳も保たなくてはなりませんし。なので飲み会ではかなり気を張っていた記憶があります。お酒以外で大学で覚えたのはあとは麻雀とスロットでした。親には申し訳なかったですが、一応留年せずに単位ギリギリで卒業することができました。

写真:噂の自己紹介。焼酎いっき!噂の自己紹介。焼酎いっき!

写真:今でも倒立はできます!今でも倒立はできます!

【社会人】

日立情報システムズ(現日立システムズ)に入社し、そこから東京に住むことになりました。最初は武蔵小金井にある寮に入りました。なんと6畳2人部屋の男子寮です。またまたむさ苦しい環境でしたが、気の合う友達もでき、楽しい生活をおくっていました。
半年ぐらい経ったとき、仲の良い同期と寮を出ようという話になり、勢いで2人で吉祥寺でルームシェアをすることになりました。吉祥寺は今では住みたい街ナンバーワンとか言われていますが、当時はあまりそんなことは知らずに引っ越しました。住んでから分かりましたが、ほどよく都会で大きな公園(井の頭公園)もあり、人情もあり、かつ、新宿&渋谷に一本で行ける吉祥寺は本当に住みやすく、便利で楽しい街でした。

写真:小金井寮写真:小金井寮小金井寮

写真:井の頭公園写真:井の頭公園井の頭公園

その後、私が結婚するのをきっかけに、吉祥寺を出て川崎市宮前区の鷺沼というところに住むことになりました。田園都市線の急行が止まる駅で、渋谷から17~18分と近くなかなか便利な街でした。鷺沼に2年ほど住み、それから妻の実家のある東京都昭島市に住むことになり今に至っています。
仕事はというと、最初は日立システムズ本社で、プログラミングとかその設計をしたりしてたんですが、5年目ぐらいのときに、リクルートエージェント(現リクルートキャリア)という会社に常駐し、情報システム部門の一員として働くようになりました。リクルートは日立とはかなり異なる環境でした。日立は縦社会で年功序列で終身雇用で、なんというか古き良き日本の企業という感じでしたが、リクルートは上下関係が比較的フラットだったり、仕事を評価・賞賛するシステムがちゃんと機能していたり、役職がついてもすぐなくなったり、20~30代で独立するのは当たり前だったり、体制の入れ代わりが激しかったり、私服だったりと、なかなか楽しく刺激的に働かせていただきました。気づけば7年半も居て、もう自分の会社の文化とか大分忘れてしまっていました(笑)その影響もあったのか、自社に戻って丸一年で現職へと転職しました。現在はまた違った感じで特に縛られるものもなくのびのび楽しく仕事をさせていただいております

【趣味・性格】

就職の件の影響か、ご縁を深めて繋げることに喜びを得るようになり、結構人紹介をしております。ビジネス的な紹介はもちろんですが、恋愛的紹介も多く、今まで紹介して4~5組は結婚に至っております。あとお酒を飲むことが好きです。好きといっても誰かと一緒に飲むことが好きでして、決して家で一人で晩酌をすることはありません(妻も飲まないので)。カラオケが好きです。T-BOLAN、DEEN、ミスチル、CHAGE and ASKA、徳永英明、尾崎豊、B’zなど90年代の邦楽が特に好きです。飲みが好きでカラオケが好きなので、スナックが好きです。ゴルフは年1~2回ほど。好きな食べ物はラーメンとカレーです。あと、趣味と言っていいか分からないレベルですが、数年前からキャンプを始めて年2~3回ほど行っています。子供も犬も楽しんでくれるので続けようと思います。性格は控えめで楽観的でポジティブだと思います。
「自分がされたくないことは人にもしない」がモットーです。あと人を嫌いになることがあまりありません。

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