LIFE STORY01

ライフプランナーの道へ

最初の就職先

社会人アメフトチームをつくるためにアパレル企業に就職

私は大学時代、「日大フェニックス」という、公式戦の勝率が9割超という驚異的な戦績を誇ったアメリカンフットボール部に所属していました(*約40年にわたって部に君臨していた鬼監督在任中当時の勝率)
ある日、その監督のもとへ、アパレル会社から「アメフトの社会人チームをつくりたい」との相談があり、私が呼ばれました。部の責任者として監督の付き人をしていた私に白羽の矢が立ったのです。
私は、ゼロからチームを立ち上げることに大きな希望とやりがいを抱いて、その会社への入社を決めました。

ところが、肝心のチームづくりの話が何年経ってもなかなか進みません。入社から3年後、「オーナーの意向でチームはつくれなくなった」と聞かされた私は、「ならば私にもやりたいことがあるので辞めさせてください」と申し出て、それから毎週のように転職雑誌を買うようになりました。
25歳にして初めて、「自分がどんな仕事をしたいのか?」「どんな人生を歩んでいきたいのか?」と真剣に考え始めたのです。

3つの条件

人脈、学び、成果主義

転職先の条件は自分が成長できること

自分自身と深く向き合った結果、私は転職先を選ぶ上で、次の3つの条件を決めました。
1.人脈が築けること
2.学び続ける必要があること
3.成果主義であること

人脈構築にこだわったのは、父の背中を見て「人脈は人を助ける」ことを教わったからです。地元(江東区深川)で商売をしていた父の元には、多くの人々から、さまざまな相談事が持ち込まれていました。幼少の頃から、そうした父の姿を見て育った私は「自分もいつかは人の役に立てる人間になりたい」と思うようになっていました。

また、「学び」を条件に望んだのは、大学時代はアメフト漬けの生活で、学生としてすべきことを全くしていなかった反省があったからです。日本のスポーツ界を見渡しても例がないほどの伝説的厳しさの下、私は部の責任者(合宿所に寝泊まりする鬼監督の付き人)として、大げさではなく「365日24時間体制」でほぼすべての時間をアメフトに捧げていました。(平均的に1日20時間労働、睡眠時間4時間という毎日です)
今からでも「学び」を取り戻したい——。私はそう思いました。もちろん、どの仕事にも学びは欠かせないものですが、もっと自分を追い込んで、自ら学び続けなければプロとしてやっていけない仕事を選ぼうと思ったのです。

「成果主義」を求めたのは、これもアメフトの影響です。私が所属していたアメフトチーム(日大フェニックス)は、当時、常勝軍団で、当たり前に日本一が宿命付けられたチームでした。そうした世界に身を置くのは大変なことでしたが、その一方で、努力したことが正当に報われることの喜びも味わうことができました。そんな背景もあり、次の仕事は、成果主義の性格の強いものにしようと決めました。

俺はここに行く!

偶然見たテレビで即決断、「ライフプランナーになる!」

そんなある日、私はテレビ番組の転職特集で見かけた、ソニー生命の「ライフプランナー」という仕事(生き方)に目が釘付けになりました。食事中に思わず箸を落とすほどの衝撃でした。画面の中で、使命感や目的、目標、やりがいなどを熱く語るライフプランナーという仕事には、「人脈、学び、成果主義」の3つの要素が全て揃っていたからです。「俺はここに行く!」とその場で決意していました。

もう1つ、その番組を見ながら、「ライフプランナーしかない」と思った理由があります。
私の地元は、「深川八幡祭り」という大きな祭りが3年に一度行われるのですが、そのときは昔の友だちと懐かしい再会の場になります。しかし、とても楽しい時間を過ごしつつも、別れ際にいつも感じていたのは、「彼らとまた次に会えるだろうか。もしかすると、(人によっては)これが今生の別れかもしれない」という一抹の寂しさでした。

最年少で入社

大げさに思われるかもしれませんが、若いころからそんなことをよく考えていた私にとって、ライフプランナーという仕事は最適だと思ったのです。
なぜなら、この仕事は、お客さまが引っ越しされても、ご結婚しても、ご縁が途切れることがありません。人生の喜怒哀楽をお客さまと共にしていくという、他の仕事にはない大きな魅力があることも、私は直感的に理解していました(SNSが発達した時代であったらまた別の感覚もあったかもしれませんが……)。

そんな中、何のツテもなく転職活動を始めようやく知人の紹介でソニー生命のリクルーターまで辿り着きました。当時のソニー生命は「ライフプランナーには40歳以上の人を採用する」という目安があったようなのですが、熱意が認められ、当時としては異例の26歳という若さでの入社が決まりました。