LIFE STORY ZERO

アメフト時代

始めたきっかけ

10歳で「第1回ジャパンボウル」の始球式を務める

父親が日本大学のアメリカンフットボール部(フェニックス)のOBだったため、小さな頃から、日曜日にはよくグランドに連れて行かれました。10歳のとき、「今度、夏合宿に参加しろ!」と当時の監督(故 篠竹幹夫氏)に言われて、深い考えもなく参加したのが、アメフトを始めたきっかけです。

本当にフェニックスの夏合宿に参加することになってしまった私は、2週間、東京都中野区にあった合宿所に住んで大学生と一緒に練習をしました。夜は合宿所で毎晩ミーティングもあったので小学生にはハードな夏休みでした。

ちょうどその頃、日本にNFL(National Football League)ブームが到来します。日本で初めて本場アメリカの選手による試合(第1回ジャパンボウル)が行われることになり、大きな話題となっていました。

フェニックスの夏合宿に参加

杉山(小学5年生):前列中央

当時の監督(故 篠竹幹夫氏)からのメッセージ

当時の監督(故 篠竹幹夫氏)からのメッセージ

夏合宿に参加したご褒美だったのでしょうか。私は、監督推薦により、6万8千人の大観衆で埋め尽くされた国立競技場で「始球式」を務めることになりました。

また、翌年には後楽園球場(現在の東京ドーム)で、日本で初めてのナイターゲーム(第1回パールボウル)が開催されました。

私はそこでも始球式を務めたので、アメフトファンからは、「また、あの小学生が出てきたぞ!」と一部で話題になっていたようです。

高校時代

高校進学の際、父親からは、フェニックス直系の日大桜丘高校の受験を勧められました。当時のフェニックスは、「大学日本一」を3連覇中(後に5連覇を達成)。しかも、前述の夏合宿のときに下級生だった選手が今や主力選手として活躍していたので、「また同じグランドで練習したい」との思いが強くなり、同校への進学を決めました。

高校では、大学生(フェニックス)と同じグランドで練習しますので、自分とはまるでレベルの違う彼らのプレーに圧倒されました。「この先、俺程度の選手が望んでも入っていけるところではない」と思っていましたが、高校3年生になると、周囲からフェニックスへの入部を強く勧められるようになります。

しかし、自分としてはどうしても行きたくなかったのです。なぜなら、高校時代はアメフトをしていたせいで修学旅行にもスキーにも行けず、アルバイトもできなかったからです。もちろん、勉強する時間もありません。「ないない尽くし」の青春でした。

アメフト高校時代の様子
アメフト高校時代の様子

フェニックス入部を決断した直後に大ケガを負う

あのフェニックスに行けば、日本一になれるかもしれません。一方で、「普通の大学生」に対する憧れもあります。
すったもんだの末、最終的に「フェニックスに行く」と決めたのですが、入部書類を提出した翌日の練習中、まさかの大けがに見舞われました。左の足首を脱臼骨折し、靭帯を切断したのです。
医師からは、「フットボールは絶対に無理。無理をすると日常生活も危ぶまれます」と宣告されてしまいました

「人生終わったな……」
全てを懸けるつもりで決断したのに、こんなことになってしまい、絶望的な気持ちでした。

入院中の病室には、大学日本一の5連覇を達成したスター選手の方々が何度もお見舞いに来てくれました。
「あきらめずに絶対にフェニックスに入れよ!」 「入部したら、1年間くらいはリハビリをさせてやるからな」 と励まされて感激し、「はい!」とまたその気になったものの、私が実際に入部したときには、その方々はもう卒業していました。

大学時代

ケガの後遺症に苦しみ退部を考える

さて、いざフェニックスに入部してみると、「ゆっくりリハビリさせてやる」どころではありません。まだ治療中で足を引きずって歩く私の姿を見た先輩からは、「グランドで足を引きずるな!」と尻を思い切り蹴り上げられました。先の苦労が思いやられる大学生活のスタートでした。

1年生の夏。まだ本格的に練習をするには程遠い状態でしたが、周囲からの「圧力」もあって、ボルトが入ったままの足で練習をしていたところ、人生でこれまで感じたことのないほどの激痛に見舞われました。医師に診てもらうと、「これ以上無理をすると足首を固定する手術が必要になるぞ」と叱られて、「今度こそ人生終わった」と天を仰いだのでした。

退部して大学も辞めよう。
そう心に決めてからも、諸々の事情で数日間はグランドに行かざるを得ません。すると、4年生のマネージャーが、「おまえ、辞めようと思っているんだろう?」と聞いてきました。とっさに「いいえ」と答えましたが、心の中を完全に見透かされているようでした。

アメフト大学時代の様子
アメフト大学時代の様子

「辞めたら、おまえの代からマネージャーを出さなくちゃいけなくなるんだぞ。うちの部にはマネージャーが必要なんだ。俺はフェニックスで日本一になりたくて入部したが、今はマネージャーをしている。まだプレーできるのにマネージャーになる人の気持ちがわかるか」と。
当時は、各学年で最終的に4人のマネージャーを選ぶ必要があったのです。

マネージャーの言葉を聞いて、頭を鈍器でドーンと叩かれたような気がしました。
自分がいかに己のことしか考えていなかったかに気づかされました。

当時のフェニックスといえば、泣く子も黙る鬼の篠竹監督の下、特に新入部員にとっては極めて厳しい環境にありました。ハードな練習はもちろんのこと、炊事や洗濯などの合宿所当番の大変さから、私の代の新入部員は1~2か月の間に半数が逃亡を図ったほどです。

その時点で残った同期部員は、わずか13人。ここで私が辞めたら別の選手がマネージャーに転向する必要があり貴重な「戦力」がさらに損なわれる。

悩んだ末に選手として貢献できない私は、マネージャーとして、裏方から部に貢献する道を選びました。
当時のマネージャーが、ある意味、選手以上に大変だと言われていたのは、監督のサポート業務があったからです。大げさではなく365日24時間体制で監督の側にいなければいけません。しかも、相手は鬼と恐れられている名将です。1日の睡眠時間は3~4時間ほどで、とにかく眠いし怖いし疲れるし、おまけに痛いし(笑)……で心も体も休まらず、それはもう想像をはるかに超える厳しさでした。

人生で大事なことは全てアメフトから学んだ
大学4年時には、チーフマネージャーとして部の責任者を務めました。 当時のフェニックスは、チーフマネージャーを司令塔にして日本一になるための役割分担が完璧に整っており、今思うと軍隊のようなところがありました。

自分の指示で部の全体が動くことにやり甲斐はありましたが、その代償というか、神経の配り方も責任の大きさも、並みの部活動とはわけが違いました。自分がミスしたときだけでなく、試合の展開も含めた、およそ部で起こる全ての悪い出来事に関して、チーフマネージャーが責任を問われるのです。 その責任の取り方がとにかく厳しいものでした。

アメフト大学時代の様子

アメフトを通じて

私は子供の頃から体も小さく、何か飛び抜けた才能があるわけではありませんでした。その私がなぜか小学校でアメフトを始め、高校では全てを懸けて打ち込み、大学では当時「学生日本一」を5連覇中のアメフトチームの門を叩くことになりました。

今思うと、いつも自分にとってサイズの大きな挑戦をし続けてきたような気がします。自分の意思だけで選べたとしたら、おそらくどの選択肢も選んでこなかったと思いますが、当時は、大人に勧められるまま、目の前に飛んできた球をただ一生懸命に打ち返し、流れに乗るしかなかったのです。

フェニックス入部を決断した時、自分に何度も言い聞かせたことがあります。
「人生の苦労はこの4年間で終わり」
まるでもう一人の自分が自らを説得しているようでした。「ここを卒業したら、もう何も苦労はないから」と。 しかし、その道を選んでみると、そこには意外な楽しさもあり、また想像以上の苦労もあり、それら1つ1つを乗り越えるたびにとても多くのことを学ぶことができました。

ボウルゲーム始球式の様子

何よりも、簡単には揺らがない自己信頼感や、同期の絆、先輩後輩のつながりは、お金を出しても買えるものではありません。学生時代に強いチームの部活動で真剣にがんばることの大切さは、こういうところにあるのではないかと思うほどです。

「100対0で勝て」と監督に言われ100点以上取ったものの、1TDを許し責任を取って一人だけ坊主に。

Withコロナの時代に思うこと
LIFE STORY」にも記したように、大学卒業後に社会人となって34年。ソニー生命のライフプランナーになってから30年が経ちました。その間、紆余曲折も人並みの苦労もあったと思いますが、フェニックス時代の苦労を思えば何でもありません(笑)。

ただし、今年になって突然世界を変えてしまった「コロナ禍」については、いろいろ思うところがあります。 「Withコロナ」と言われる新しい生活様式や価値観における仕事は、今までの経験や常識が通じない分、誰にとっても、かつてない苦労や困難が予想されます。

それは私も同じです。
これまでのように目標に向かって進むことはもちろんのこと、目の前に飛んできた球をしっかり見て、その意味を感じ取り、むしろ主体的にその流れに乗るような、しなやかさと勇気を持ち続けていたいと思っています。 それこそが、私がアメフト時代に学んだ人生の教訓だからです。